ひところよりは落ち着きましたが、
「〇〇すぎる△△」という表現についてどう思います?

わかりやすくて注目を集めやすいので、
使い手としてはとても便利な表現ではありますが。

ユーモアがあればいいんですよ。ユーモアがあれば。

「美人」のインフレ状態について考える

「〇〇すぎる」の世界で一番多いのが、
「美しすぎる△△」とか「美人すぎる△△」ですが、
これはいただけません。

ユーモアの要素がゼロです。

それに、たいては、美しすぎ「ない」ですから。

美人がいなさそうなイメージの職業や業界であればあるほど、
美人の基準が甘くなってしまう傾向があるので、

 

ハテ?どこが美人すぎるのだ?


ということが、あちらこちらで発生しています。

そこらじゅう美人だらけ、
美人の価値の暴落、美人のインフレ状態を招いています。

 

そこに愛はあるのかい?(古「すぎる」・・)

「美人すぎる」と言われた本人も、
(よほど目立ちたがりで図々しい人をのぞいて) 迷惑なんじゃないですかね。

先入観なしにフラットに見れもらえれば、
「おっ、結構美人!」と思ってもらえるところを

ムダにハードルを上げられるので、
「なーんだ。たいしたことないじゃないか。」
とマイナス評価を受けてしまいます。

これは本人にとって損ですよね。

そう考えると、

それほど美人じゃない人に対して「美人すぎる」という表現を使う人は、
本人のことを考えてないですよね。

本人のことなんかどうでもよくて、
そのネタが話題を集められればいい、というスタンスですね。

ライターやメディア自身のエゴだけで、そこに「愛」はないわけです。

 

「〇〇すぎる△△」が不快に感じるか否かの基準

「〇〇すぎる△△」が不快に感じるか否かの基準は、

  • ユーモアがあるかどうか
  • 対象に対する愛があるかどうか(対象が人や動物などの場合)

ということなんじゃないかと思います。